はじめに
「デマこいてんじゃねえ!」というブログが面白かったので、「デマこいてんじゃねえ!」とここでツッコミたいと思う。
「いい文章」を書くための3つのルール/まずはパソコンを閉じましょう?
上記のリンクがそのツッコミどころで、ざっと目を通してもらいたいんだが、この記事では我々ブロガー(…に限らず?)の永遠のテーマ「いい文章とは何か?」に関する言及が。結論から言うと、
1.「謎」には「答え」がなければいけない。
2.「伏線」は「回収」されなければいけない。
3.「結論」には「驚き」がなければいけない。
この3つのルールに従い、ペンを握れば「いい文章」が書けてしまうらしい。しかしこれは本当だろうか? 僕はこのルールを読むことにより、2人の作家が頭をよぎった。それは以前からこのブログでもたびたび紹介している、トマス・ピンチョンと村上春樹。彼らの作品を手に取ればわかると思うが、上記のルールは間違っている。…というより、むしろその真逆で、
1.「謎」は「謎」のままでいい。
2.「伏線」には「伏線」を重ねるべきだ。
3.「結論」には「?」という疑問が生じなければならない。
この3点が「いい文章」の条件ではないだろうか?
1.「謎」は「謎」のままでいい。
かつて僕は、文学というものを忌み嫌っていた。学生時代の国語の教科書にある文学作品に感動したことは一度もなかったし、それらの作品についての感想文なんていうのは学生生活でもっとも嫌いなイベントだった。だって感動してないんだもん。「感動してないものの感想を書け」なんて言われても、そのあらすじをタラタラとなぞり、原稿用紙の空白を埋めることが精一杯の悪足掻き。それに反して数学は昔から好きだった。両者の好みに差がついた原因とは、その学問にある「明快さ」だったと思う。「2+2=4」という明快な解答を示してくれる数学と、100人いれば100通りの解答がある感想文。
しかし今になってわかることだが、感想文、いやっ、「文学」の良さとは、明快な解答がないことだ。1000人いれば1000通りの解法で、今現在の自身が信じる「回答」を一生かけて更新していくこと。いわば信仰のアップデート。「2+2=4」というような明瞭な解答を示すことのできない問題は世の中にありふれているのだから。例えば哲学とか、自己言及とか、倫理的な問題だとか…。むしろ数学の世界にも「解答なし」という問題は山のようにある。世界とは混沌という大海原に浮かぶ秩序の島々を指すのかもしれない…。
繰り返す。文学の良さとは「解答」がないこと。よって「謎」は「謎」のままでいい。
2.「伏線」には「伏線」を重ねるべきだ。
物理学の世界には「エントロピー増大の法則」というものがある。これは、
閉じた箱の中に熱い空気と冷えた空気があるとき、放っておくと次第に混ざり、一度混ざると分け隔てることはできなくなる。
と、当たり前のようなこと。しかしこれにはもう一歩先の解釈あり、分子の数が増えると累乗的に攪拌される、という結果が伴う。つまり情報という分子が増えれば増えるほど、その情報はよく混ざり、分け隔てることはできなくなる。いい例えではないかもしれないが、「女にモテたい」と考えた時に、大抵の男は容姿を磨くことからはじめると思う。流行りのスタイルで髪を切り、流行りの服に身を包み、ガリでもデブでもない理想の体型をトレーニングジムで作り上げ、プロテインを飲み、食生活を改め、理知的なユーモアを磨くため、お笑い番組や落語を熱心に研究する。
ほら、一つの欲が生活のすべてに作用した。こんな具合で文章の「伏線」とは、「回収」されるどころか、熱心な読者により様々な「解釈」を生み、著者の思惑に反して「伏線」に「伏線」を重ねる結果となってしまう。「覆水盆に返らず」的な?
3.「結論」には「?」という疑問が生じなければならない。
これはまた、1.「謎」は「謎」のままでいい。と重複してしまうかもしてないが、以前、友人と村上春樹の作品について議論したことを紹介しよう。彼は確かこのようなことを言ったと思う。
「村上春樹の作品は、結局何が言いたかったのかがわからない」
彼はアンチ春樹派閥としてこんな発言をしたんだろうが、この時点で彼はすでに春樹ワールドの中で踊り狂っている。なぜなら村上春樹とは言いたいことを活字にすることができないような、そんなショボい作家ではないし、「結論なし」とする文体とは彼の持ち味。しかしなぜ、そんな後味の悪い小説に日本を問わず全世界の読者が熱を上げるのかというと、その理由の一つに結論はないがそれまでの過程になにか重大なヒントが隠されてあったような気がするから。登場人物の対話が独特で、浮世離れしており、映画化の困難さとはその点にあるのかもしれないが、とにかくその何気ない会話の中にいくらでも深読みできそうな、考えれば考えるほど意味のないことのように思えてしまう要素がふんだんに散りばめられている。
つまり彼の作風とは、『夢を見るために…』の中で彼自身が告白している以下の通りのこと。
僕の文章はある程度読みやすいし、ストーリーもしっかりとあるから、普通の読者はごく素直にスーッとそのまま読んで、読み終わって、うまくいけば「ああ面白かった」と思ってくれるわけです。しかし読み終えて本を閉じたあとで、何かがひっかかる。「でも、あれはいったいどういうことだったんだろう?」って考え出す。そしてもう一回読み返す。そういう読者がけっこう多かったですね。
僕はそれは非常にありがたいことだと思うんですよ、実際の話。そんなふうに同じ本を二度三度くり返して読んでくれる人って、今の世の中にそんなにいないですからね。(中略)しかし、僕がこんなことを言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。
以上の言葉に今回の「いい文章」論議のすべてが集約されている。結論が奇抜であれば奇抜であるほど、読者は驚き、感心するかもしれない。しかしそんな奇天烈な小説とは、たいてい一度読めば満足してしまう。つかめそうでつかめない、知識や感動が体系化して連鎖するような文章が本当にいい文章の条件だと思う。
「学問」という文字を辞書でひくと「体系化した知識、研究方法などの全体を言う語」とあるように、「謎」が「謎」を呼び、「結論」で問題が湧いてくるような、そんな知識と感動のスパイラルが永続していくからこそ、我々は飽きることを知らない。これが僕の思う解答なしという回答。
最後におさらい。
1.「謎」は「謎」のままでいい。
2.「伏線」には「伏線」を重ねるべきだ。
3.「結論」には「?」という疑問が生じなければならない。
結論
みなさん、いかがでしたか? 僕の言いたいこと、伝わりましたか??? 笑
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はじめまして。
非常に興味深く拝読させて頂きました。
「デマこいて〜」の方の定義は、エンターテインメント小説に、
今回のsho1ncoさんの定義は、純文学小説の、
それぞれ「良い」とされるものの定義として読めるのかな?とも
思いました。
僕は、ここのところもう何年も殆どエンターテインメント小説と
いうものを読まないのですが、例外的に読んだいくつか
(ダン・ブラウンの作品だとか、今読んでいるミレニアム)は、
この謎解きによるカタルシスを堪能する悦びもあるのかな?と
感じました。が、すぐに記憶から消えてしまう、いや、正確には
意識から消えてしまう気がします。
一方で村上さんの作品は何年経っても意識から消えずに付きまとっては
生活のある場面で、ふと既視感を以って思い出されて、またページを
繰ってみたり、という感じです。
あくまでも、僕個人の話ですが。
僭越ながら、非常に素敵なblogだと思いました。
また寄らせて頂きます。
こちらこそ、はじめまして。コメントありがとうございます♪♪
この記事を書きながら思ったのですが、こういう人の批判をしたり、されたりする時の論理って、いたちごっこ的に埒があかないことなんですよね…。ああ言えばこう言う風にきりがないというか…。でも、そのきりのない論理をどこまで深く掘り下げることができるのか? っていうのが学問であったり、文学であったりすると思うんですよね。
また遊びに来てください♪♪